あんまり、キミが。




理由と言い訳。』


「オドロキくん、もういい加減にしてくれませんか」

「いやです」

「…、これでは、満足に紅茶も飲めません」

「でもいやです」

「それに、手がしびれないんですか」

「それでもいやです」

「はぁぁ…、まったく、しょうがないですねえ」



かれこれ数時間は、この体勢でいるだろう。
私は自分の元生徒、というか、弟子というか。
とにかく教え子である王泥喜法介くんに腕枕をされている。
つめたいシャツの袖が、頬に当たった。
そうして、そのまま抱きよせられる。ちいさな腕だ。
さして厚くもない胸板と、それから果物のかおりがする。
太陽に照らされた、柑橘系のかおりだ。
先ほど私はこの香りに、はじめて包まれて眠った。
それはほんの、数10分のことだけど。
目が覚めた時に隣に人が眠っているなんて、いつぶりのことでしょうか。
「いいんですか、成歩堂なんでも事務所に行く時間でしょう?」
壁掛け時計に目をやれば、午前9時を回っている。

「今日はみぬきちゃんと成歩堂さんは弟さんのライブツアー初日に行ってます」
「…そうでしたね」
「だから今日は、オレ、先生とずっと一緒にいれます」
「…キミが私と一緒にいる予定はあっても、私がキミと過ごす予定はたてた覚えがありませんが…」
「せんせい」
「はい、なんでしょう、オドロキくん」

私は昨日まで、刑務所の独房でひとり夜を明かしていました。
そんな生活をして10年。晴れて自由の身になったというのに、この10年、彼はずっと私のところへ通い続け、
好きだのなんだのというわけのわからない言葉を並べ立てて、にこにこと笑って。
私との無駄な時間の為に、そんな10年を過ごした上に、今も隣にいる。

「おかえり先生」
「もう何回も聞きました。それにキミのところへ帰ってきたわけじゃありません」
「わかってます。オレ、勝手に待ってただけだから。でもうれしくて。」
「わかっているなら、この私を束縛している腕をゆるめてくれませんか?」
「あ、ごめんなさい」
確か彼は今30くらいになったか。年相応には見えない童顔が、出会った頃とまったく変わらない謝りかたをする。
「…オドロキくん、キミは、もう立派な弁護士です。先生はいらないでしょう。だから、もう会ったりする必要もない。
こんな犯罪者相手に話すことよりも、大事な仕事は山ほどあるはずです」
「そうでしょうか」
「そうです」
「あのね、先生」
「なんでしょうか」

大きな犬のような眼が、少しだけ半月型になる。

「だいすき、先生」

「っ…、そんな、話もしていない…」

「先生顔が赤いよ」

「おどろ、…んっ…、ん…」

キスをされたのは、はじめてじゃない。
それどころか、もうだいぶその先まで手は出されている。
仮出所中には、すっかりといただかれてしまった。

「霧人さん。だってオレ、あなたしかいないから」
「…、ぁ…、」
口腔に入ってくる舌と同時に、シャツが少しずらされていく。
まったく本当に、困った生徒のまま、成長して。
その事実に少しだけ、うれしさのようなものが感情を支配していく。

「あなたにするんだって、最初っから決めてたし。
それはやっぱり先生と出会ってから10年。ちっとも気持ちは変わらないし。むしろ気持ちは大きくなってくばっかりで。
出所したらどっかに行っちゃう気がして怖かったから。
だからなんだ、先生。…ごめんね」
「……、ごめんねで監禁は、やりすぎでしょう」
「だって絶対そうしないと先生、オレの手の届かないとこに行っちゃう」

行動は読まれている、というわけでしょうか。
もちろんそうするつもりでした。出所したらこんな意味のない行為も、彼とともにいる時間も、必要ないと。

「さっさと外国にいくつもりでとったチケットを目の前で破られた時は、少々怖かったですよ、オドロキくん」

たまに成歩堂の癖がうつったのか、口元だけで笑うようになった生徒は、くしゃりと私の髪をなでる。
ゆっくりと、確かめるように。

「キミは親子でもないのに、成歩堂にそっくりですよ」
「先生の大好きな?」
「大嫌いな、です」
「…じゃあ、オレのことも嫌いですか?」



きらいなわけがない。
きらいだったらキスはおろかからだをゆるしたうえに。
あまいむつごともいわないし、あなたのこえにききいったりもしない。


「好きですよ、オドロキくん」

「…、じゃあ、なんで、…どっか行ったりするんですか?」

「それは、難しい質問ですね」

「先生、…オレのものには、なってくれないんですか?」

「それも、難しい質問ですね」

「…、…っ…、答えをください、先生、オレ、…オレ、…」


ちっとも変わらないまっすぐな眼差し、声、髪、それから。



『あ、オレ、先生がいいんです。先生がすきなんです』

あんまり当たり前のように言ったから、私はその場で吹き出してしまって。

『あー!!先生ひどいですよっ』

あんまり当たり前のように怒ったから、私はその場で彼の髪を撫でてしまって。


『…オレ、大丈夫です、ずっと、待ってますから』


あんまり当たり前のように笑ったから、私はその場で。




「先生?」


「…、あんまりキミが、きれいに笑うから」


とがった前髪に触れる。


―― だからなんですよ、オドロキくん。




つづく。