Tears trace



(本当に幸せな時には、涙が出るもんだって言ったのは、ココロさんだったか)



 朝方4時。
 アイスバーグは等身大の鏡に映る自分の身体に散った無数の花びらを眺めながら、二度溜息をついた。

「ンマー、あいつら…」

 隣の寝室から聞こえる、二人の男の寝息と寝言。

 彼は少々のひりついた痛みを感じ、自分の両手首をまた、見つめる。
 ロープの跡で少し鬱血しているその跡を見つめながら、暫くは人前で肌は晒せないなぁ、とまた、溜息をついた。


 時は遡り――3時間前。

 いつものようにガレーラカンパニーの職長達と、ブルーノの店で飲んでいたアイスバーグは、目の前で騒ぎ出した弟子に少々困っていた。
 正確には、アイスバーグのグラスの中身は、最初一回以外は、ノンアルコールなのだが。

「だからぁー、アイスバーグさん聞いてますかあ! おれぇ、あなたが好きなんですよぉ!! なのに最近アイスバーグさん、フランキーん所ばぁーっか行ってんでしょう!もうおれを捨てるんですかぁぁ〜〜…うう、ひっく…うう…」

 パウリーがいつもより更に自分に絡んできている。 というか、今泣き出したところ、と言うワケだ。
 アイスバーグは助けを求めるように、同じ席に座っているカクとルッチに視線を泳がせた。

「そうじゃの、さすがに最近のアイスバーグさんは、まるで解体屋の嫁にでもなってしまったようじゃ。…黙っとる訳には、いかないのぅ」

 だが、カクから返ってきた台詞は、これだ。 どうやらカクは酔ってはいないようだが、いつもとは様子が違う。パウリーを止めにかかってくれる筈のカクが、一緒になってこちらを非難の目で見つめている。
 アイスバーグは頭を抱えたくなる心境になりながら、社長の顔をする。
「ンマー、二人ともそう言うな。 おれにとってお前らはかけがえのない存在だぞ。 なあ、ルッ…」
 ルッチ、とそこまで言う前に、アイスバーグの口は、呼ぼうとしていたその名の持ち主、ロブ・ルッチ本人に塞がれていた。

「ッあぁあ!!! てめぇルッチ!!!」
 アイスバーグの隣に座っていた金髪が跳ねる。

「なんじゃ、ズルイのぅルッチは…」
 アイスバーグの左前に座っていた男は、低い声を出しつつ、ルッチを睨む。

 そして同時に、二人はルッチを引き剥がしにかかった。
 解放されたアイスバーグは、自分の目の前に座っているルッチに、言葉をかける。
「…ん、ンマー、どうした、ルッチ」

 ルッチもカクと同じく泥酔するタイプではない。
 返事を待つアイスバーグに、今だカクに押さえつけられながら、ルッチは言葉を返した。
『アイスバーグさんが…悪いんだッポー…』

 それじゃ何もわからねえだろう、とその後色々試行錯誤しつつアイスバーグは聞いたが、同じ台詞が返されるだけだった。
 仕方なく、
「ンマー、悪かった」
 と、自分の非を認め、ルッチに酒を勧めるアイスバーグ。
「アイスバーグさんは大人じゃのう」
 カクはようやくルッチを解放し、ニコニコと上司を見つめる。
 アイスバーグはカクのグラスにも麦酒を注ぐ。
「アイスバーグさぁん…おれの事嫌いっすかぁ〜うう、…」
「ンマー、そんな事あるわけねぇだろう、パウリー」
 そして泣き上戸な弟子の髪をぽんぽんと叩きながら、店の壁に掛けられた時計を見つめた。

 11時50分。

 アイスバーグの頭の中に浮かぶ、空色の髪。

『じゃあ、それを証明してください、アイスバーグさん』
「証明…?」

 なんとか今日はもうお開きにしたいと考えていたアイスバーグの耳に、ルッチがそう囁く。

『おれ達をちゃんと愛してくれてるのかって、証明するッポー』
「あ、愛ってお前なあ…。 ンマー、考えておくさ」
 そこまでアイスバーグが言った時、不意にパウリーが呟いた。

「おれ、アイスバーグさんと、昔みたいに朝まで一緒にいたい。一緒に寝たい。そしたら、信じるっす」
「――!?」
 とんでもない台詞に、思わず地に戻りそうになるアイスバーグ。

「それはいい考えじゃパウリー」
 瞬間、アイスバーグの腕を、カクとルッチが引き寄せた。
「お、おいお前ら…?」
 立ち上がったアイスバーグを、テーブルから離す二人組。

『おれの部屋が空いているぞ、クルッポー』

 ルッチはカクにそう耳打ちする。
「では、運ぶとするかの。 パウリー、行くぞ」
「ふえ…? あ、どこいくんだよ、おれも、アイスバーグさんと一緒がいい〜〜!!」
 と、パウリーにまで羽交い絞めにされ、アイスバーグはさすがに焦りを見せた。

 まずい、この展開はまずそうだ。

「ま、待て、今夜はこの後――」

 週末から日曜の夜にかけては、なるべく弟弟子と過ごすことにしているアイスバーグだったが。

「アイスバーグさん!?」

 三人同時にそう言われれば。

「三分でいい、電話させてくれ」
 そう、答えるしかなかった。






(――それとも、トムさんだったか?)


「で、おれがそれで引き下がると思ってんのか、アイスバーグ?」
 電話越しに聞こえる、アイスバーグにとってもっとも心地よい声。

 店の入り口にルッチ達を待たせつつ、店にある電伝虫で、アイスバーグは秘密基地に電話をかけている。

「ガキじゃねーんだ、来週は行くからよ、今日のところは…」
「いやだ!!」
「なっ――」
「アイスバーグの真似。な〜んてな」
「まったくお前はフザケてばかりだな、バカンキー」
 それでも自分の口元が緩んでいくのを感じ、アイスバーグは苦笑した。

「言えよ」
 唐突に耳に届いた言葉に、兄弟子は頭をひねる。
「ンマー、何をだ」
「本当はおれに会いたくてしょうがねえって言え」
「……バカンキー」
「そしたら、明日の朝、ここに来りゃ許してやる」
 独占欲たっぷりの声。
「ンマー、来週じゃダメなのか?」
「バカバーグ。週末にも帰らねーったぁどうゆう夫だお前はよ」
「いつからおれはお前の夫になったんだ??」
「最初からだ!! じゃあな、絶対来いよ、待ってるからな!!」

 ガチャリ、と電話はそこで切られた。


「…ンマー、災難な日になりそうだ」

 アイスバーグは今日最初の溜息をつくと、ブルーノに清算を頼むよう言いに歩き出す。

 時計は、深夜1時丁度を差していた。










 ルッチの自室――ベッドの上で。


 さて、どうしたものか、とアイスバーグは心で呟く。
 寝ぼけているのか酔ったままなのか、パウリーが自分の上に乗り、抱きついたまま、寝ている。
(お…重くなったなあ、パウ…)
 そして右隣にカク、左隣にルッチ。 
 市長さんに、逃げ場はない。
「ンマー、お前ら、何がしてぇんだ?」
 寝ている気配のない両隣の部下に、そう問いかければ。
「そうじゃのう、ルッチ、やってしまうか?」
『クルッポー、その意見に激しく賛成するッポー』
 楽しげな二人の会話が、アイスバーグを挟んで行われる。
 パウリーが、その声にむにゃむにゃと反応を返した。
「アイスバーグさん、す、きです〜…」
「ンマー、ありがとよ」
 ぽんぽんと子供をあやすようにパウリーの背中を数回叩いた後、アイスバーグは両隣にまた声かけた。
「おれは寝てェんだが――」

 その時、カクが無理やりパウリーを退かし、代わりにルッチがアイスバーグに抱擁を仕掛けてきた。

『この愛、受け取ってもらえますね?』
 そんなとんでもない台詞付きで。

(……ンマー、さすがのおれも、これは逃げてえ)
 彼の額から汗が流れる。
 いくら(恐らく)酔っている部下とは言え、これはふざけすぎだ…とアイスバーグは思う。

「こりゃルッチ、また抜け駆けか? アイスバーグさんはワシのじゃぞ!」
『ふざけるなッポー! 最初に愛したのはおれだッポー!!』
 この二人、まったくもって本気なのだが、それに気付く上司ではなく。

「わかった、どっちでもいいんだが、一緒に寝てぇんだろう、大人しくしてろ」
 逃げたいと言う気持ちを抑え、アイスバーグは目を閉じる。

 パウリーもルッチもカクも、アイスバーグにとって大事な部下だと言う事に変わりない。

 心の中でひとつ、弟弟子に謝りを入れる。
 きっと今、あの秘密基地で、一人寂しく座っているのだろうか。
 
――本当はおれに会いたくてしょうがねえって言え――

 それが本音なのだと、わかってしまう自分が――。
 …どうしようもなく、本当の自分なのだと、気付いている。

「アイスバーグさん…」

 耳元で声がし、アイスバーグは瞳を開ける。
「なんだ…?」

 そこには、いつのまにか起きたのか、寝ぼけたパウリー。
「大好きです〜」

 むちゅう。

 …アイスバーグ氏、思考停止。

「ん、ン、マッ…?」

「パウリーお主までッ!!こうなったら力ずくじゃッ!!」
 気合いの入ったカクの声が部屋に鳴り響き、アイスバーグの腕が彼に捕らわれる。

 依然、パウリーに口付けられたまま、なんとかやめろ!と言う思いを込めて弟子を足蹴にする。
「ッ、アイスバーグさん、ひどいっす〜」
 完全に酔いの覚めていないパウリーだが、それに同情する余地はない。
「いい加減にしねぇかお前ら…遊ぶのも大概に、」
『おれ達は本気だッポー!!』
「…!? お、おい…!?」

 ルッチはパウリーの上着からロープを取り出すと、
『…協力しろ、カク』
 低い声でカクにそう耳打ちし、アイスバーグの腕にそれを絡めていった。

「――、待たねェかお前ッルッチ――!」
 ぐるぐると巻かれていくアイスバーグの両腕。それが後ろ手に完全に縛られた。
(――まずい、酔ってないようでコイツら酔ってんじゃねェか!?)
 アイスバーグに馬乗りになるカク。

「…本当に、愛しておるんじゃよ、アイスバーグさん」

 そのまま、身動きの取れないアイスバーグの首筋に、カクは口付けを落とした。




 3時間後――。

 ルッチのベッドの上には、身体中キスマークだらけになった市長と、眠気に身を任せたガレーラ三人衆。
「…ンマー、痛ぇ…」

 アイスバーグは自分に未だひっついているパウリーを退かし、ベッドから降りる。

 そこまでキツく縛ってはいなかったのか、ハラリ、とロープが床に落ちた。

 「…あ、いすばーぐさぁん…好き…」

 甘えた声で寝言を言う、昔から変わらないパウリーと。

『…くるっぽー…』

 寝言でまで腹話術の、掴みどころのないルッチと。

「すまん、アイスバーグさん」

 恐らくただ一人まったく酔っていなかっただろうカクが、ベッドから窓の縁に移動した。
 アイスバーグは、窓に視線を向ける。

「ンマー、明日、仕事遅れるんじゃねーぞ?カク」

 申し訳なさそうにしていたカクの表情が、無邪気な笑顔に変わる。

「当たり前じゃ」
 台詞と同時に窓から飛んで消えた部下に、ひらりと手を振ると、アイスバーグは寝室を後にした。





 ――そして、現在に至る。

 何度目かのため息の後、アイスバーグの脳裏に浮かんだひとつの考え。
 それを思った時に、
 目の前の鏡に映る自分の表情は、妙に晴れ晴れとしていた。
 無論、この姿をあの独占欲の塊な弟弟子に見せた瞬間、きっとすごい事になるだろうなぁ、とも思うのだが。
「こりゃあ、いいわけのしようがねェなあ」
 ハハ、と笑いつつ、そのままアイスバーグは浴室に消えた。


(これで、おれは――あいつを――あいつ、から――)


 その時市長が笑った理由を聞けば、恐らくフランキーは、泣くのだろうが。


 数分後。

 ウォーターセブンの市長が、朝焼けの中走る姿を、ひとりのガレーラ社員が見かけたそうな。




 秘密基地のドアを目の前にし、アイスバーグは呼吸を整える。
 無用心な鍵をかけてないドアノブに手を触れさせる。

 寝ているヤツの隣に入れば、少しは意趣返しが出来るだろうか、などと考えて、そう考えている自分にアイスバーグは少し笑いそうになっていた。
 筈だったのだか。

「早ェじゃねェの?」

 その声と、ドアを開けた瞬間、目の前に広がった空色が、市長の表情を驚きに変えた。
 
「ンマーなんだ起き…」
 たのか、と言うのをアイスバーグはやめた。

「…玄関先だぞ、ここぁ」

「うるせェ、なんだこの汗。息切らせて来たくせによ」

 そう思われたくなくて、呼吸を整えたというのに。 

 会いたくてしょうがないなどと、いえる筈がない。
 相手の冷えた体を心地よく感じていたアイスバーグに、フランキーは言葉を続ける。
「風呂入ってきたのか? まだ髪濡れてんじゃねェかよ、バカバーグ」
 言葉と共に、フランキーの指が自分の髪に触れるのを感じた。
 びくん、とアイスバーグの身体が戦慄く。

 言うべきか、言わざるべきか。

 ――さっさと、終わりにすればいい。

 この一言を言えば――終わらせる事ができるのだと。

「…ああ?なんだこれぁ!?」

 視線を、首筋に感じる。

 気付いた。

 弟弟子は、気付いた。

 アイスバーグの喉が、ゴクリと鳴る。

 その後の選択を決めるのは、自分でしかない――。



 このままの関係を続ける事が、一体今後何を招くのか、自分はわかっている。

 今ならまだ間に合うかもしれない。直情的なこの弟弟子ならば。

 この一言で――。

「見りゃわかんだろう」

「……っ…誰だよ…ガレーラか…?」

 市長の冷静な声に相反した、解体屋の声は、空気を震わせた。

(おれ、は、…まちがってないだろう、トムさん…ココロさん、ヨコヅナ…なあ…)

 苦々しく歪んでいく眼前の存在と同時に、自分の心が拉げていく。
 笑顔のまま、アイスバーグは言葉を返した。
「そう言う事だ、フランキー。 おれは、お前の夫でもなんでもねえ」
 
 アイスバーグは、フランキーを押しのける。

 サラサラと台本を読んでいるように自分の口が動くので、生来自分は市長に向いているのかもしれないと、頭の片隅でアイスバーグは思っていた。

「…わかったらさっさと…」


「島を出ろ」


「……!?」






(なあ、トムさん。

 おれ、フランキーが大事なんだ。

 あなたと同じくらい、ココロさんも、ヨコヅナも。大事で。

 こいつを助けてくれたのは、きっとトムさんなんだって思ってる。

 あの海列車に引かれたんだぜ?

 助かるなんて、おれもココロさんもヨコヅナも思ってなかった。

 だから。


 だから、一緒にいたいって気持ちが、溢れちまってさ。

 その後、どうなるかなんて、わかりきってるのに。

 無理やりコイツを、蹴り出す事も、できねえんだ。

 フランキーが自分からこの島を出る事でしか、おれはコイツとの時間を無くす方法を、知らないから。

 せっかくあなたが救ってくれた、大事な存在を。

 おれのせいで――あなたの元へ行かせる事になったら。

 …、こんな事言ったら、トムさん、…また、あなたは、あの笑い声を、おれに聞かせてくれますか?)



 自分と重なった声に、アイスバーグは目を見開いた。

 今、目の前にいるフランキーは。
 これから、自分を殴りつけて。
 そして島を出る――筈だ。

 それが、自分の知っているフランキーの筈だ、とアイスバーグは動揺を隠せなかった。

 今、目の前にいるフランキーは。
 自分の頬に触れて。
 島を出ろ、と言った口端は少し口角を上げていて。

「…それで、おれが逃げ出すって思ってんのか、アイスバーグ?」

「、待て、フランキー、おれは、あいつらに…っ」

「それとも、まだおれから逃げようとか思ってんのか?」

(おれの知ってるフランキーは、ブルーノの店で電話した時に聞いた、ふざけてばかりの、ガキな――)

 変わっていないのは、この真っ直ぐな瞳だけなのだろうか。 

 変わる事のできていないのは、自分だけだったのだろうか。

「…諦めろって…、おれの幸せと、お前の思う『おれの幸せ』は、違うんだからよ」

 こんな台詞を吐くような、子供ではなかったのに。



(トムさん、おれの幸せは…なんだっけ?)



 アイスバーグは、震える手を、フランキーに伸ばした。

 ぎゅう、と安い布でできたシャツの端を掴む。

「それでもまだ口噤むってんなら、しょうがねーから体に聞いてやる」

 アイスバーグは自分の唇に当たる感触に、そっと唇を開ける。


(本当に幸せな時には、涙が出るもんだって言ったのは――

 ああ――なんだ、お前か、フランキー)







「嘘吐きな市長さんだな、ったくよう」




 朝6時、汚れたソファーの上で、「なんだよ、お前抱かれてねーじゃねえかよっ!」と言う、少し子供に戻った解体屋の声が、市長の耳に届いた。



END