空を、見上げている。

 風が、草花を揺らしている。

 太陽は眩しく、自分を照らしている。


「…そこおったらよかったのに。迎えにきてしもうたか」



 
剥がれ落ちた仮面



 そろそろ眠りにつこうかと、アイスバーグは時計を見上げた。

 時刻は、深夜一時を回っている。


 カタン――。


 彼の身体が、一瞬強張る。自室の窓から聞こえる、それを開ける音。


 どうやら今夜は眠れそうもないと、アイスバーグは額に手を当てた。








「あんたが悪いんじゃよ」



 今日もまた、カクはそう言ってアイスバーグに口付けた。

 まるでそれは儀式のようで、切なさを浮かべた瞳と、相反した強引な仕草が、ゆっくりとアイスバーグの思考を奪ってゆく。

 薄暗い明りをつけたオレンジの光と、眼前に覆いかぶさっている青年の髪を、アイスバーグは交互に見やる。

 背中にあるのがベッドなのが、幸いだと心で呟いた。

 前回床で押し倒された時は、後で背中が痛んだからだ。



 カクはアイスバーグの抵抗を嫌った。
 それを実行すれば、アイスバーグの身体には、見えない傷がつく。

 初回2回で、彼は身体的抵抗を試みるのをやめていた。
 


「お前はいつも、そう言うなぁ…」



 優しく己の髪を撫で始めたカクに、アイスバーグはそう言葉を投げた。
 
「だって本当の事じゃろ? 全てあんたが悪いんじゃ」

 髪に触れていた手はゆっくりと下がり、上半身を撫でてゆく。

 脳に伝わる快感に、アイスバーグの眉間に皺がよる。
「――ん、ぅ…」


 くぐもった喘ぎ声もまた、カクは嫌った。
 その度に酷い行為に堕ちてゆく為、アイスバーグは素直に声を出す。

「ワシを惑わす、あんたが悪いんじゃよ?」

 心底楽しんでいる声と、動き。

「あんたは仕様の無い上司じゃよ…アイスバーグさん」

「…ーっあ…、ん…」

 深く頷く事で、この街の市長は、ただ一人の部下の機嫌を損ねないように、と思っていた。

「ワシに抱かれる事が、好きじゃな?」

 カクはここの所、何度も繰り返し、そう彼に聞いていた。

「、…好き、…だ」

 そうアイスバーグが答えれば、年下過ぎる青年は、普段昼間に見せる笑顔を作る。

「――ワシを、好きじゃろう?」

「…っ、?」

 いつもはそうは聞かないカクだった為に、一瞬アイスバーグは戸惑った表情を見せた。

 それが、カクの表情を歪ませる。

 「聞こえんかったか――?」


 普段よりもトーンを落とした、低い声がアイスバーグの寝室に響く。

 上半身を優しく撫でていた指先が降りてゆき、アイスバーグの発熱した箇所に触れる。

 びくん、とカクの上司は身体を震わせた。

「――、すまん」

 ただ、アイスバーグは頭を垂れた。

 彼にとってのカクは、別段憎い存在ではない。

 パウリーやルッチ、カリファと同じ、大事な存在だ。

 それはこんな関係になってからも、変わることは無かった。


 だが、アイスバーグの胸には、未だ消えぬ恋色の灯火があった。

「何を、謝うておるんじゃ?」

「おれ、には――大切なヤツがいる。それだけ、だ…」

 なんとか言葉に出す。
 
 脳裏を過ぎる、空色の髪。


「…、ハハ…、あんたは本当に、ワシの心を逆撫でるのが巧いのう…」

 手は、離れていた。

「――もう、こんな事はやめろ。おれなど抱いてどうする。カク、お前の為にも――、ッ!? ぁあっっ!!!」

 唐突にカクの熱を身に捻じ込まれた、引きつったアイスバーグの悲鳴に似た声が、部屋を突いた。


「…、か、カク――っよせッ! ぐぅっ――!!」

 後は永遠に続くかの様な、衝突音と、粘着質な水音。

「あんたはっ…ワシ、を見ていればいい、んじゃ!」

「…あ、ぅ…あ、い、あ、――っああ!!」

 アイスバーグの爪が背に傷を作っても、カクはただ彼を侵食し続けた。




 そして、朝焼けが部屋に差し込んだ時、アイスバーグの意識は途切れかけていた。


「…、あんたが…わるい、んじゃ」

 カクは上司の胸の上に乗ったまま、繰り返しそう続けた。

 アイスバーグの目に涙はにじみさえしなかったし、助けを求める声もなかった。


「ンマー…、すまねェ」


 瞬間カクは自分の髪に当たった感触に、身体を強張らせた。

 アイスバーグが、自分の髪に口付けをしている。

 無論これまで、アイスバーグからの口付けなど、一度も無かった。

 あの夏の日に、無茶な関係を強いてからの、この三ヶ月。



「…あんた、ずるいのう」


「…ふ、大人ってなぁズルくできてるもんだ。――ンマー、おれは重度かもなぁ」

 くく、と上司は笑う。

 部下はただ、頭の上で聞こえるその声を、ずっと覚えていたいと思った。

「――謝るのは、ワシの方じゃろうに…」

「…悪いのは、おれでいいんだ」

 言葉と同時に、アイスバーグはカクの背に手を伸ばす。
 
 先程の情事で引っかき傷だらけになったそこに、そっと触れると、カクはびくん、と痛みに戦慄いた。

「――つ…」

「痛いか?」

「――あんたに比べれば、大した事ないわい」

 シーツに残る、赤い染み。

 身体は、所有印の花びらを散らしている。

「ンマー…確かに今日のはまた、明日に響きそうだなぁ」

 

 また、アイスバーグは笑う。

 その度に、封印したはずの熱い感情が、カクの心を支配していく。

 ――誰かを愛する事など、無駄な事だから、ワシは誰も、愛さない。

 そう、決めていたのに。

 彼の笑顔を見るたびに、胸は痛み、そしてどうしようもなく愛しさが広がる。

 それに耐え切れなくて、ただ、傷つける事しかできない。

 それでも――、どうして彼は自分へまだ、笑いかけるのか。


 それが、カクには理解できなかった。


「…カク、背中見せてみろ」

 アイスバーグはそう言うと、ベッドの上棚に置いてある傷用薬を手に取った。

「そんなもんいらん」

「跡が残ったらどうするんだ。婿に行けなくなるぞ?」

「…ムコ、――く、あはは――、まったく…あんたは本当に…」


 ――どうして、愛してくれないんじゃ?


 カクはアイスバーグから降り、彼に背中を向けた。

 優しすぎる仕草の、だが角ばった指先が、そこに触れる。

「ンマー、こりゃ酷ぇ…見てるこっちが痛えなあ」

「…、く、くすぐったいわい…――、アイスバーグさん…」

 とすん。

「…?」

 アイスバーグは、カクの背に寄りかかる。

「…お前を、愛せたら…良かった」

「――ッ、あ、あんたは嘘吐きじゃ…」

「そうしたら、傷つけずにすんだのになぁ」

「…本当は、こんな事するワシなんて、消えればいいと思うておるのじゃろう――??」

 カクの瞳から、涙が零れた。



 ――どうして、愛してくれないんじゃ?

 ――ワシは、こんなに、愛してしまったというのに。




「ンマー…そう思ってんならお前、クビになってんじゃねェか?」

「…っそれは…」





「――消えていい存在なんか、この世にいねえよ」





 いつも聞く声のトーンとは違う、アイスバーグの呟き。

 それがきっと自分の聞く事のできた、初めての上司の本音なのだとカクは思う。

「…もっとも、気付くのが遅すぎたってヤツなんだが――」

 背に感じる彼の熱が、どんどん高くなっているような感覚に、カクは戸惑った。

 先程言っていた大切な存在は、彼の側にもう帰る事はないのだろうか。

 だとしたら、アイスバーグは、孤独だ。

「忘れたらええ。あんたの元には帰ってこんのじゃろ?」

「そりゃ、無理な話だ」

「っ……」

「――おれが唯一、愛しちまった奴だから。…この想い持って、奴のトコ、行きてェんだ。――伝えられなかった…から」

 心からの、言葉。

 それが、彼の真実だというのなら。

 自分は一体何をしているのだろう、とカクは思う。



 例えこの人が欲しくて、殺めたとしても。

 この人はその大切な存在の元へ行くだけだ。

 背に、こんなにも熱いぬくもりがあるのに。

 彼を手に入れる事は、叶うことのない夢。


 貴方の幸せを彼は願っているから、自分の元で幸せになれ――、などというズルイ嘘さえ、吐く事ができない。


「…ワシは、それでも――あんたを抱き続けるぞ」

「…カク」

「その――あんたの唯一愛した奴がどんな風にワシを呪ったって、かまわん。 ワシは…あんたが――欲しいんじゃ…っ」


 一分一秒でも長くここに留まって、その人の所へなど、行かないで欲しい。

 どんなに足掻いても叶うことのない愛だと言うのなら。

 心が手に入らなくても、彼を腕の中に留めておきたい。

「――カク」

 振り向かなくても、いい。

「ワシは…、ワシがあんたを愛していれば――それでいいんじゃっ!!」

 あまりにも幼稚で、自己満足の、台詞。

「…、わかった」

「――ッ!?」


 ――え?


「…ひとりってなぁ少々寂しくてな――お前がいると、おれは…笑える」

「アイスバーグさ…」




 突き放される、とカクは思っていた。

 むしろそれを望んでいたのだ。


 ――側におって、いいんか?


 恐る恐る彼の腕を外し、そのまま向かいあう。

 朝焼けの光が、彼の存在を包み込んでいた。


 そっと、手を伸ばす。

 アイスバーグは少し泣きそうな顔をしていた。








「…愛せなくて――ごめんな」




 ――いいんじゃ。

 ――それだけで…いい。


「…ワシが、悪いんじゃよ」



 ――あんたを、愛したワシが。











 それから、カクがアイスバーグを抱く事は少なくなった。


 ただ、隣にいるだけ。

 ただ、彼を笑わせるだけ。

 それだけで、カクは幸せだった。







 空色の風が、白バラを揺らすまで、あと、2ヶ月――。










 空を、見上げている。

 風が、草花を揺らしている。

 太陽は眩しく、自分を照らしている。


「…そこおったらよかったのに。迎えにきてしもうたか」





 カクはそう言うと、そっとまた仮面を被った。




END