オレンジジュース。
「…あ、おかえりー」
そこにいるのは、ちゃんと成歩堂だ。そんなことはわかっている。
きっと、誰がなんと言おうと、私の、愛した男のままだ。
「うム 土産、だ」
きゃっきゃと騒いでいるみぬきくんに、ケーキの入った箱を渡す。
私の見たことのない、にこにことした張り付いた作り笑いを浮かべながら、成歩堂は近づいてきた。
「久しぶりだね。もう、2年くらいかな?」
「電話はしていただろう。 こちらに帰ってきても、見つからないのだから仕方ない」
皮肉を交えて軽口を叩くと、いきなり抱きしめられた。相変わらず先読みのしにくいことを仕掛けてくる幼馴染だ、と思う。
「子供の前で、何をしている」
「もう、小学生じゃないんだから、ちゃんとパパの思い人くらい、わかっているさ」
「なんだそれは――、貴様、まさか話していたと、いうのか?」
「当たり前じゃないか。 あ、…一応、子供が寝静まってから、おまえと電話でデート、してたんだけどな?」
「っ…そういう問題ではない。教育上よろしくない。よって離しなさい、子供が目のやり場に――」
困るだろう、という前に、口付けられた。軽く、だが。
「…ぼくの、もの、だろ?御剣は」
「そんなことは、確認する必要もないだろう…、事実だ、生涯変わることない、な」
「ありがと。少し安心したよ。 7年だからね。 …いい人ができたんじゃないかって。」
昔なら、こんな風に笑いながら、成歩堂は言わなかっただろう。熱く、真剣な目で、言ったはずだ。
――少しは、大人になっていた、という確信もあった。
電話口での声は、3年もしたころには、ずいぶん落ち着き払った声に変わっていたから。
「信頼している親友、相棒、…という枠組みではな」
私は、成歩堂に告白をされた覚えはない。だが、自分の気持ちは知られている。
彼をかけがえのない、失えない存在だと、7年前に告げた、あの日から。数年たってようやく寄越された電話で。彼の声色はずいぶん変わっていた、から。
「…つれないなあ、相変わらず。 ねえ、これから予定はあるのかな?」
「済ませてからこちらへ来た。明日は休みだ。……、少し、待たないか。」
こちらとて、久しぶりどころか、ずっと会えなかった分、触れ合いたい気持ちは大きい。
だが、すぐにボタンを外そうとするのは、性急すぎるし、なにより彼は1人の女の子の父親なのだ。もっと節度と言うものを持ってほしい。
「オドロキくんと、みぬきはとっくにビデオに見入っているころだよ。」
…ビデオ…まさか…。
「トノサマン、か!?」
私の声に、あー、と一度、成歩堂はため息をついた。
「………ちがいます」
「嘘だな! この前DVD化されたばかりの、映画のものだろう! 私も見たいとつねづね思っていたっ、さて子供部屋はどっち…」
―― カタン。
「だーめ」
ぎゅう、と、抱き寄せられた。
それだけで、先ほどの自分の決心が、簡単に揺らいでいくのがわかる。…私は、彼に会いたかったのだから。
あたたかい。 ああ、成歩堂が、ここにいる。
「…ほんとはさ、イトノコさんあたりが、ちゃんと送ってたんだろ?アメリカに。DVDのひとつやふたつ。少ない給料でさ。…ま、ぼくほどじゃないけど〜」
「―― さすがだな。 …察しの通りだ」
「じゃあ、いつまで焦らすの。」
「…焦れているようには、見えなかったぞ。昔のキミではないんだ、…落ち着いてるじゃ、な…っ……あ…」
「あと数分でイトノコさん、来るから。子供を見ててくれるって、言ってくれた。だから、お願い。…ね?」
「っ…わか、ったから…それを一旦落ち着けろ」
ジーンズの上からでも、直接当てられればさすがに気づく。…2年前と同じ、熱が。何も言わず、私を抱こうとしていた7年前と、変わらない。
「30代の男は、やりたい盛りだよ」
「それは、一般論とズレてるぞ。20代だ…、ろっ…こら、いい加減にしないか。成歩堂、…」
「じゃあ、キスして、ぼくを好きだって言ってよ」
「っ…!」
「一度も言ってくれないじゃない。 そーゆーのは、ずるいよ、御剣」
「それは――お互い様、だろう」
「…君としたいって、ずっといってきたはずだけど? 電話するたび、君を求めてたはずだけどなあ。」
「電話代は、ほとんど私持ちだったがな――」
「娘の給食費のほうが、大事だからね」
「…わかっている、キミは正しい。 だが…私は怖かった。…キミを、キミとの関係を、本当に恋愛という形で治めてしまっていいのか。
それが最善なのか、わからなくなってしまっているのだよ」
本当に私は、不安で仕方がなかった。成歩堂は、とっくに誰かを好きになっているんじゃないか、と。疑って。そのたびに電話に出る回数が減った。
こうして、ようやく彼が、私を部屋に呼べるようになって、来れるようになるまで、7年だ。普通は、気持ちなどとっくに冷めているはずではないか。…それなのに。
「怖いから、したくないの?」
「…ああ」
「ぼくをスキになってくれたおまえが、そこにあるのに?」
「…ああ。…っなる…、待て、…おい!」
「あのね。もう子供じゃないんだからさ。 分かるだろ。…待ってても、いいこと無いって。…時間がどれだけ大切なのか、わかるだろ、御剣」
「…し、しかし! このような場所で――」
「やだ。ここがいい。おまえの世界じゃない。ぼくの部屋で、ぼくのテリトリーでおまえを手に入れなければ、意味がない」
そういう彼の声が真剣すぎて、なんだか怖い。だが、同時にその言葉に安堵した。
「成歩堂…」
「力が抜けたね、…観念した?」
「――……、っ…キミが、好きだ…」
「御剣…」
「おそらくキミが思っているよりも、深く…、私の方がキミを愛している。…キミ、が、私にとってどれだけ大事な存在なのか、……きっと、わかっていない。」
「…ばかだね、御剣。」
目頭が熱くなって、鼻がツンとする。彼の前では、私はどうも、脆くなりやすい傾向にあるようだ。
自分の背中に彼がいることが、これほど安心できることなのか、と再認識させられる。
遠くて。あまりにも遠くて。何度も、迷って。
しかし、もう二度と、私が勝手に消えたことで、彼に刻んだ傷を繰り返したくなかった。
だから、メール、手紙、電話。そうしてたまに日本へ寄れたときには、店に遊びにいって、少しずつ彼に慣らされた。
「…最後まで、キミを受け入れたら。キミから、離れられなくなる。…、時間が、私を弱くした」
「離してもらえると思った? おまえは、あの時から一生ぼくのものだって、決まってるのに」
「本当、か…?」
「うん。 おまえに再会してから、御剣以外で抜いてない」
「――っいや、それは、…別に女性でもかまわないのだが…私だって、その…」
「へえ。じゃあ、御剣は女の子で、いつもしてるの? まさか、抱いたりなんか、してないよね?」
「それはしていない! た、ただ、たまにムショウに、見たくなるのだよ…」
「ふうううん。 浮気性だね。ゆるせないなあ」
だが、言葉の内容とは裏腹に、からかうような、嬉しそうな声が私の耳に近づいてくる。息が吹きかかって、そのまま耳に、一度噛み付かれた。
「っん…う…」
「いくらでも、してあげるから。 …ぼくだけ見てて?」
「―― りょ、了解、した。 その約束をしよう。 すまなかった」
「うん。ぼくが、嫉妬深いの知ってるでしょ? おまえに会うために進路選んじゃうような男なんだからさ。…頼むよ」
「わかっている…」
「そんな悲しい声、出さないで。今回の件で、ようやく過去のふんぎりがつきそうなんだ。もしかしたら、将来…また法廷で、御剣と争うことになっちゃうかもしれないよ?」
「――待っている。 ずっと。…っ、あ…」
「こっちはもう待てないかも。…御剣も、でしょ?」
スラックスの前を開けられて、シャツの前から指も進入してくる。…彼の指は、2年ぶりだ。
「ふ、う…っぁ、…な、るほ、ど…、――…っああ!」
「大きくなってるよ。…すごい、我慢できない、ってカンジだね。 ぼくの部屋に行こう」
「、、あ、う…っやく、早く、…」
「わかってる。こらえ性ないからね、ぼくのかわいい恋人は」
嬉しそうな声が耳にかかって、そのまま肩を抱かれて、彼の部屋へ向かった。
――成歩堂龍一は、本当に、私を心得ているような、そんな気がする。
暗い部屋にオレンジが、点灯される。見たこともない家具に囲まれた、おもちゃ箱のような部屋に、昔から彼が使っているベッドが置いてあった。
「どうやって、おまえを抱こうかって、ずっと考えてた。」
「…変態のような台詞だが、異存はない。」
先ほど来たイトノコに子供たちを外へ連れ出してもらい、とうとうこの事務所件、彼の自宅には、私と彼のふたりだけになる。
そう考えただけで、どうしようもなく、ただ、相手を想うだけの自分になっていってしまう。それが、恐くもあるのだ。
「――…御剣。 大好きだよ」
「…ああ、…もっと、早く…、言ってくれたら…こんなにも不安になることは、なかったのだぞ、成歩堂」
「ん、ごめん。 ホントはね、来てくれるなんて思ってなかったし、何度もおまえの電話ごしの声を聞くたびに、ああ、これが最後なんじゃないかって、思ってたんだ。
だって、逃げる時間なんていくらでもあっただろう? でも、おまえは逃げなかった。
ぼくを――、まだ、少しでも望んでくれているんだって、…そう、感じられて。今、やっと言えたんだよ。…御剣、…おまえを、愛してるって」
ハッタリで法廷を轟かせてきた彼とは違う、正直な、困ったような顔に、胸が痛くなる。
私が彼でなくてはならないように、彼にとって、私もそのような存在であることが。素直に喜んでいいのか、わからなくなる。
甘いだけの関係ではない。そんなことは百も承知で。
それでも――、それよりも互いが愛し合えたことの確率のほうが、奇跡なのだと、思うことで、ようやく距離を縮めることができる。
「…ばか、だな、キミは。 私の人生にキミを、これ程刻んでおいて――…」
ああ。キミは演技が得意だが、こんな時に、視線を合わせることは、できないのだな。それがきっと、本物の成歩堂龍一だ。
今、私の指が触れることのできる、成歩堂が、本物なのだ。
「…責任を取ってやる。キミがわたしのそれを取るよりも、私がそうすることの方が、容易だからな」
笑って、キスを送った。 約束のつもりだ。
目を開けると、私を映した瞳が、あまりに優しくて、困る。
好きだ、といわれるよりもずっと、困るのだよ、成歩堂。 互いしか、見えなくなりそうで。そんな危険を孕んだ男だということも、承知をしているからだ。
彼の執着は、他人のそれより、100倍は強い。
なぜなのだろう、か。 その矛先が、一番に私に向かったことの理由は。
「うん…責任とってよ。…ぼくをおまえに堕とした、責任」
触れていた手を握られた。熱くて、少し汗ばんでいる。
「さて――、それはどちらだっただろうな?聞かせてくれないか、その――、どうしてキミは私を?」
「どうして? うーん。実は自分でもよく理解できてないんだ。 なんかもう、細胞ごと御剣怜侍に持っていかれちゃってる感じでさ。
とにかく、求めちゃうんだよね、心も、身体、――もさ?」
言いながら、成歩堂はわたしをベッドへ導いていく。エスコートが手馴れているな。
「…いつから、だ?」
「出あった時だから――、小学生くらいじゃない?」
「…冗談がうまいな」
さも当たり前のように囁いて、そのまま私を横たえ、覆いかぶさってくる。
ジャマなのか、ニット帽を、脇にそっと片手でおいている。ああ、久しぶりだな。髪はあまり立っていないが。
―― 少しだけ、昔に戻ったようだ。
「何度も言っているが、髭くらい剃りたまえ」
「似合ってるだろ?」
「…まあ、そうなのだが…」
「けどそうしようかなあ。キスの時に御剣の肌を傷つけたくないし」
「…、そ、そんなにやわにはできていないぞ」
「そうかな?」
頬を撫でていく指が優しい、2年前と変わらない。ああ、あの時はどこまでキミを受け入れていただろうか。
最後までできずに、そのまま仕事に向かった私を、キミは怒らなかった。
「…その、成歩堂」
「なに?御剣」
「先ほどは急かしてしまったが、少しは落ち着いたのだ。…しゃ、シャワーを浴びないか?」
「してからじゃ、ダメ?」
「…その、仕事で汗をかいている」
「僕がそんなの気にすると、思ってる?」
楽しそうににこにこと笑う彼は、腹黒いと思う。だが、それも彼だ。
手はとっくに私の半身を撫でている。いやらしい手つきだが、私はそれが好きだ。
「…、愚問だったな」
「それ、正解」
成歩堂龍一、キミの笑い声は、私の耳に、とても心地よく届く。
身体がだるい、重い、だが、それも悪くは、ない。
「御剣、大丈夫?」
「……加減をしなかったな」
「ごめん。でも、本当はもう2、3回はしたかったんだけど、我慢したよ」
「……、バカモノ、身体がもたん」
「怒ってる?」
飼い犬のような顔で、私の顔を覗き込んでくる成歩堂龍一は、なんだか昔に戻ってしまっている。
ああ、
そこにいるのは、ちゃんと成歩堂だ。そんなことはわかっている。
きっと、誰がなんと言おうと、私の、愛した男のままなのだ。
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