雨の降る午後の話。 窓に当たる水の粒が、合わさって、 やがてそれは滴となって、垂れていく。 私はそれを、ただ何も考えずに見ていた。 自室での、紅茶を飲みながらの、そんな一時は、私にとって心を落ち着かせるものだ。 今日は、余り良い日とは、呼べないものだった。 いつもはエスカレーターや階段を使うようにしている私なのだが、どうしてもエレベーターに乗らなくていけない事になってしまった。 もう、大分平気になっていると、自負していたのだが。 冗談のように、エレベーターが、停止した。 瞬間、悪夢が簡単によみがえってくる。 一瞬で意識は遠のき、私は近くにいた刑事に支えられ、情けなく今日の仕事をキャンセルする事にした。 まあ、急ぎのものではなかったので、先延ばしにしただけなのだが。 私は幼少時のトラウマにより、精神が脆弱だ。 このような時が、一番自分の弱さを身にしみて感じる。 悪夢はもう、見なくなった。だが、代わりに父を殺す師の夢を見る。 そうして私はそれを止められない。 相変わらず無力な子供の姿で、それをびくびくと震えながら、見ているのだ。 エレベーター、暗闇、地震、エアポケットですら気を失う。 弱い。あまりにも。 自嘲の笑みが勝手に浮かんでくる。 窓に映るその顔は、泣きそうな子供のそれだ。 雨滴で、歪んでいくそれは、私、なのだろうか。 ―― ぴんぽーん。 「ふう、…こんな時に、客人か」 私は立ち上がり、玄関へ向かい、ドアを開けた。 そこには、見慣れた顔の友人が立っていた。 「御剣、大丈夫?」 「…キミか」 名を、成歩堂龍一と言う。私の信頼する親友であり、相棒である唯一の男だ。 私が、弱みを見せたくない相手でもある。 「イトノコさんが、御剣が倒れたから、そばについていて欲しいッス、自分は仕事に戻らなくてはいけないから、お願いするッス! って、早口でまくしたてに来たからさ。…その、迷惑だったかな?」 まったく、キミだって仕事中だろうに。まだ、夕方だ。 それでも、彼の顔を見ると、心が休まる。 弱みは見せたくないが、結局、彼が一番私の闇の部分を知っている。―― そうして、そこから救ってくれた、恩人でもあるのだ。 「いや、そんなことはない。…上がっていくか?」 見れば、いつものツンツンとした彼の髪が、雨で塗れている。 「キミ…傘は、どうした」 「え…、あ、雨、降ってたっけ」 「随分前から、降っていたぞ」 「…気づかなかった」 へへ、と照れながら彼は笑う。 気づかないはずがない、今日は昼から雨だった。 「シャワーを浴びろ。話はそれから、だな」 「うん、お邪魔するよ。ごめんねなんか、気ぃ使わせちゃったね」 「かまわない。…その、わざわざ来てくれて感謝する」 少しは素直に、彼の好意に甘えることができるようになった。 親友とはいえ、随分前に別れたきりで、連絡すらとっていなかった。 それでも、成歩堂は、私の黒い噂を聞き、弁護士にまでなって、私に会いにきてくれた。 約束していた再会ではない。彼がいなければこの邂逅は存在しなかった。 「当たり前だろ、ぼくはおまえの親友なんだからさ」 「…そう、だな」 私のピンチには、必ず駆けつけてくる彼は、いわば私にとってのヒーローのようなものだ。 まったく真逆の人生を歩んできて、まったく真逆の性格をしていて。 私は彼を何度も拒絶し、それでも、彼は私を救う、と言って本当にその言葉どおり、闇から引き上げてくれたのだ。 本当は、泣きたくなるくらいに、うれしかった。感謝しても、しきれない。 そんな私にできる事は、彼が払えなくなった事務所の家賃を払う事くらいだ。もちろんそれは時間を置いて返ってはくるのだが。 そんな、事くらいしか、私は彼に返せるものがないのだ。 感謝の言葉も、つたないもので。それでも成歩堂は、いいよ。当たり前だもん、と言って笑っていた。 …本当に、彼が、私の人生にかかわってくれた事に。 ありがたいと思いながら、ほんの少しだけ後悔をして欲しいと思う。 こんな私に、キミはまぶしすぎるのだよ。成歩堂。 「ありがと、御剣。あったまったよ」 「ああ。紅茶を入れた。飲みたまえ」 テーブルにカップを置き、私は彼から少し離れたチェアに座った。 だが、置かれたカップには手を触れず、そのまま成歩堂は私の方に歩いてくる。 どうしたのだろうか。確か、この葉をキミは気に入っていた筈だが。 「…成歩堂?」 「泣いてただろ、御剣」 「何を根拠にそんな事を言う」 「目が、少し赤い」 背中から腕が延びてきて、頬に触れられ、瞼まで指先があがってくる。風呂から出た後のそれは、暖かい。 困ったな。なんとか誤魔化せないだろうか。 「花粉症だ」 「…嘘つき。もう春じゃない」 「夏にだって、花粉は飛ぶのだよ」 「でも、泣いてた」 ぽつり、ぽつり、と窓に当たる雨のように、会話が続いていく。 私はキミを見ずに、窓に映るキミと、視線を合わせていた。彼も同く、そうしている。 心配そうな彼の表情は見慣れたもので。 そんな顔ばかりさせている私は、少しだけ笑っている。 「…もう、落ち着いたのだ。心配しなくとも、数時間したら私もまた仕事に戻る」 「だめだよ。ちゃんと休んで」 「大したことはない。いつもの、アレだからな」 自嘲気味に笑いながら、視線を空に向けていると、不意に後ろから抱きよせられた。 たまに、彼はこんな事をする。そうして私はそれが嫌ではない。 髪に彼が頬をすり寄せている。シャンプーの香りが、心地いい。 「…ね、いい子だから、今日はもうゆっくりと休んでよ」 「……眠れないのだよ。」 「じゃあ、側にいてあげるから。横になるだけでもいい」 「…仕事は…キミ、どうするつもりだ?」 「真宵ちゃんに、依頼だけ取っておいてって言ってある」 「…まったく…、弁護士失格だな」 「いいよ。御剣の親友失格になるよりは。」 頬に、キスをされた。親友はこんな事は、しない。 これでは、まるで。 「…成歩堂、…」 「心配なんだよ。おまえ、そんなに強くないんだからな」 「…まあ、自覚はしているつもりだが」 「だったら、今日一日だけでいいから。休んで。半日くらい休んだって、バチは当たらないくらい毎日毎日、飛び回ってるだろ?」 「…キミは、私を甘やかすのがうまいな」 「だって、…親友だから」 何度も何度も、彼は私に対して親友、という言葉を口にする。 成歩堂は私を抱き上げた。 運動神経や体力にはまったく縁のない人生を送っている彼が、私の体重を軽々と持ち上げるのは、妙だ。 「…重くないのか」 「ぜんぜん。背ばっかり高くって、軽いんだよ、おまえ」 「…2センチしか、変わらないではないか」 「いいから。ほら、ベッドどこ?」 「突き当たりにある部屋…だ」 「ん。了解。」 何も聞かずに成歩堂は私をそのまま寝室に運んでいく。 彼に身を任せていると、なんだか自分が自分ではなくなっていくような、そんな感覚におそわれる。 …彼は、私を、どう思っているのだろうか。 「成歩堂。…先月分の家賃の返済を、チャラにしておこう」 「あのね。そーゆー下心で来てるんじゃないってば」 冗談を言い合って笑って。 しかし、ベッドに私をおろした後、成歩堂は私に覆い被さっている。 額と額が、合わさる。 「熱はないね」 「風邪ではないからな」 「…御剣」 「なんだろうか」 「…なんで、なんにも言わないの」 「さっきから、しているのは会話ではないのか?」 「…そうじゃ、ないよ」 ああ、今度は、唇だ。 舌と舌が、触れあった。 これは、初めてだな、成歩堂。 「…、」 「……、こーゆー下心で来たのに。 なんで、何も言わないの。 なんで、いやがらないの、御剣」 不安そうな瞳だ。キミには似合わない。 いつも、輝いている方が、キミらしい。 「さあな。…嫌ではないからだろう。」 「っ……、…ほんと?」 「うム。…まったくと言っていいほど、嫌だと思わない。相手がキミだから、だろうな」 雨音がうるさいから。 このようにキスをしていても、気にならないな。 「…っ、ん…」 「、御剣、…ごめん…、おまえが、…傷ついてる時に、…つけこんでる…」 「かまわない…」 きっと、こんな時くらいしか、キミを受け入れられないかもしれない。 いっそ、すべて奪ってほしいような、そんな感覚も覚えた。 彼は、私を愛しているのだろうか。 …私は、彼を、愛しているだろうか。 「寝ちゃってよ、御剣。そうしたらなんにもできなくなる」 「……では、起きていよう」 彼のとがった髪に触れてみた。 少しだけまだ、濡れている。ちゃんと乾かさなかったのだな。 「…キミといると、癒される。私が傷ついていると言うのなら、しばらく側にいたまえ」 私の言葉に、成歩堂は瞳を少しだけ輝かせた。 うム。やはりキミには、その方が似合う。 「…いいの、こんな事してるのに?」 もう一度、口づけられた。小さく吸う音がする。 「らしくないな。いつもの強気はどうした?」 「…だって、御剣は特別だから。…失うくらいなら、親友でいた方がいい。」 悲しそうに笑う。…キミは、そんな男だっただろうか。 もしかしたら、私は彼の、ほんの一面しか知らないのかもしれないな。 ダイスの様に、彼はいろいろな面をもっているのかもしれない。 「…では、親友でいよう。キミがそう望むのなら」 「、…うん」 「本当に、キミが、そう思っているのなら」 髪を少しつかんで、自分に引き寄せると、簡単に唇が合わさる。 成歩堂は、そのまま私の首筋にキスを落としてきた。 「…、ん」 「…御剣、…だめだよ、…期待、しちゃう、からさ」 「雨音で、聞こえない」 「…っ…ぼく、…は、…」 「…いい。…別に言葉にしなくとも、わかるものだ」 本当は嘘だ。何もわかってはいない。ただ、 キミが私をもしも、想っているのなら。 想って、焦がれて、こうして求めてくれているのなら。 そんなものはいらないと思った。 「…、御剣…、…おまえが、…」 それなのに、彼は言葉を続けようとする。 そんなものよりも、もっと近くにきてほしい、と思う。 「、成歩堂、私は、キミに惹かれているのだよ」 「…っ!」 キミは、悲しい顔をしているよりも、笑顔の方がいい。 寂しそうにしているよりも、楽しそうにしている方がいい。 キミが私を特別だと言ってくれたように、私にとっての特別な存在は、キミだ。 本当はさらけ出したくない弱みや思いも、きっと最後にはキミになら、知られてもいいと思う。 これを、恋と呼ぶならばそうだし、 それを、愛と呼ぶならばそうだと思う。 ただ、名などついてない想いでも。 こうして一緒に、いたいと思う。 キミの隣に、いたいと、思う。 そこまで私が言うと、成歩堂は、ただ、私を抱きしめていた。 「ありがと、御剣…」 「…別に、礼を言われることは言っていないのだが…」 「ううん、すごく、すごく嬉しいから。ありがとうでいいんだ」 「そうか。…キミは、嬉しいのか」 「うん。今、最高の気分だよ」 「ならば、伝えた意味は、あったのだな」 いつの間にか、雨が止んでいた。 成歩堂は、私から降りると、そのままベッドの横にある椅子に腰をかけた。 「…成歩堂?」 「側にいるから」 そうして私の髪を撫でている。ゆっくりとした、優しい動きだ。 「…そうか」 「うん、ずっと、見てるから。」 「それは少し、恥ずかしいな」 耳元に近づいてきた彼が、私を愛していると言うので。 そのまま彼のタイを引っ張った。 「み、御剣苦しいっ」 …不器用ですまないな、成歩堂。 本当は、するっと外してやりたかったのだが。 人生はそうそううまくはいかないものだ。 しかし、私は今、幸せというものを味わっているのだと思う。 大切な人の笑顔につられて、口元が緩むなど。 本当に、ほんの数ヶ月前は、信じられなかったのだ。 「…もー…、かっこつかないじゃないか」 「それも、キミには似合わないのだよ」 |