規則的な機械音。
規則的なキータッチ音。

規則的な、


『籠鳥。』



窓に当たる粉雪が、雫となり、伝ってゆく。
もう、こんな季節になるのか。

音も無く時間を知らせる右下の表示に目をやり、疲れた目を瞬きさせる。
一通りの持ち帰ってきたデスクワークを終え、暖かなティーカップに手を伸ばす。

ため息をひとつ、部屋に零しながら、その原因となる男のことを、考えていた。
長い間、繋がらなかったロジックが、解けそうになっていた。
それは別段困るはずのない事態だ。 しかし、今回の件は、いっその事一生解けなくても、よかったのだ。

「…成歩堂龍一」

声に出し。己で確認する。

私にとっての彼は、一体どのような存在なのか。だったのか。
簡単に言えば、幼馴染の、今は親友、だ。
相棒、と言えば、口元に笑みを浮かべて返してくるような関係、だ。

画面に、その名を打った。

「私にとって」

『成歩堂龍一の、存在意義は、なんなのだろうか?』

さすがに、苦笑を隠せない。
私は何をしているのだろうか。

『成歩堂龍一』

どうやら私は、彼に対し、
同性であり、親友である、彼に対し。

恋わずらって、いるらしいのだ。

確証は持てていない。しかし、ふとした時に相手の事を考えてしまい、挙句、今は何をしているのだろうか。
事務所に寄っても大丈夫だろうか、などと思っている時点で、結果はわかりきっている。

冗談ですら、笑えない。

いっそ、解けなければ良かったのだ。

『成歩堂』

文字を、BACK SPACEキーで、消していく。
それによって、本当に自分の頭の中にある彼を消せるような気がした。

消えてしまえ。
私には、必要のないものだ。感情だ。
あっては、ならないものなのだ。
それによって、彼を失ってしまうのならば。 さっさと消えてしまえ。

「…っ…!!」

バイブレーション機能にしていた携帯電話が、光っていた。
手にとり、名前を確認する。

成歩堂龍一、だ。

「…なるほどうっ?」

「あ、もしもし御剣? ――ねえ、今なにしてた?」

まだ、PCの液晶の画面には、彼の名前があった。名字だけになったそれを、指の腹で撫でる。

「……、キミのことを、考えていた」
「ぼくのこと?」

「うム…、そうだ」
「…御剣、…あのさ、これから、…会えないかな」

「すまないが、明日も早い。 それに、今から、と言っても、零時を過ぎている時間なのだよ」
「あー…、…あ、のさ…、実は、…今、マンションの近く…なんだけど」
「本当か? つまりはキミは、…わざわざ、会いに来たのか?」

電話口で、少しだけ彼が、息を飲むのがわかった。
しばらく続きそうな、沈黙。

「ごめ、また…」

違う。 動揺しているのだ。
キミの一挙一動に、どうしようもなく私は、困惑してしまう。

「今、玄関にいる。下へ行くからそこで待ちたまえ…っ」

がちゃり、とドアを開ける。

「、あ」

視線が合った。互いに間抜けな面を晒していることだろう。

「…、本当に近くにいたのだな。そのような時は、電話ではなく、インターフォンを押したまえ」

「…あは、ごめん」
「…雪がチラついているではないか。肩に積もっているぞ」
「いや、大丈夫、ほら、ぼくって身体は丈夫な方だからさ」
「…入りたまえ」

嘘をつけ。風邪を引いたイメージしかないぞ、私には。

「けど、御剣…明日早いんだろ?」

「まだ6時間半ある。 30分ならキミの話を聞ける…それに、この雪の中、キミを帰すというのは、友人として忍びないからな」

成歩堂は、きびすを返しながら部屋に戻る私の後をついてくるようだった。
私は自分の動揺を隠す事に精一杯で。
紅茶のカップを戸棚から出す指が震えて、かちゃ、と何度か音が鳴った。 葉の香りのする湯気に、少しだけ心が落ち着いていく。
情けないな。彼は友人として遊びに来たのだ、なにを動揺する必要がある? 
そもそも、私は自分の中にある感情が、本当に彼に対する恋情であるかの確信をしたばかりなのだ。
こうして、彼と対峙し、世間話でもすれば、きっと成歩堂に対して、友情以上の関係を持たずとも良いと、気づけるはずだ。
ほんの気の迷いだ。 私は男で、彼も男で。それ以上、何が起ころうというのか?
起こしては、いけないのだ。


「御剣、…あのさ」

紅茶に口をつけながら、成歩堂が切り出してきた。

「なんだろうか」
「―― ぼくを、どう思う?」

「…何を言い出すかと思えば……、…幼なじみの、まあ、親友だろう」
「うん。…そうなんだけど、…ほかに、特別な感情とか、まったく、わいた事ないかな?」

彼は、一体何を言いたいのだろうか。
はっきりと言ってくれないと、理解しがたいのだが。

これ以上は、踏み込めない。踏み込んでは、いけない。
私は、彼との関係を崩したくはないのだから。
嘘をつくのは、…得意なのだ。 顔さえ見なければ。

窓の外に視線を向けた。 まだ雪の止む気配はない。


「そんなものは…ない。 それで話は終わりか? ならば、今夜は客室で寝たまえ。あとは何時に帰ってもいい。
鍵はポストに入れておきたまえ。…それでは、私は寝…、」

彼が、私の見たことのない表情をしていた。
…おそらく、傷ついた、ような、そんな。

「……ごめん、御剣、それ、できないや。 ぼく…帰るね」
「な、成歩堂、…? ま、待て、……行くな!!」

自分でも驚くほど、大きな声になってしまう。
ダメだ。私はキミのことになると、自分が、自分でなくなってしまうのだ。
それでも。

「卑怯になるから言うよ。 ぼく、おまえが好きなんだ。 …もうずっと、前から」

「………な……」

「本当にごめん。…ちゃんと忘れるから。…それまで、ちょっと親友でも、いられなくなるかもしれないけどさ。
―― 勝手な事ばかり言って、ごめん。…じゃあ、またな」

本当に勝手なヤツだ!!
忘れる、だと? 親友ですら、いられなくなるだと?
私は、それを嫌だと思う自分を、止められなかった。

「っ成歩堂、待てと言っているだろうっ!?」

腕をつかんだはいいが、そこからどうしたらいいのかわからなくなる。
私は、どうしたいのだろう。混乱した思考では、それ以上動けない。

「泊まれないよ…、好きな奴がそこにいるんだから」
「…、…成歩堂、…っキミは…」
「…もーほんと、…苦しくてさ、限界で。我慢できなくなっちゃったんだ。おま、…きみに、嘘をついてる事に」

法廷や皆の前のような、呼び方にあえて変わる。
ずきり、と胸が痛む。なんだこれは。どうしたら、いいのだ。私は、彼が、…

「嘘をついたのは、私の方なのだよ、成歩堂」
「…え」

ごくり、と緊張とともに唾を飲み込む。
耳鳴りがする。
深呼吸を、一度した。

この関係を崩してはいけない。
この一線を、越えてはいけない。

耳鳴りがする。まるでサイレンのようだ。


「…、キミが好きだ、成歩堂。……、その、…私は、最近、…いや、今し方、気づいたのだが、な…」
「…………ぇ……、? だってさっき…」
「確信がもてなかった。…卑怯な真似をしたのは私の方だ。 謝罪しよう。…呆れた…だろうな、すまない、引き留めてしまったな。
…その……、…また、いつもの私たちに、戻れるだろうか…?」

このような言い方すら、卑怯だということもわかっている。
だが、私の性格上、自分から折れること自体が、できないのだよ。

成歩堂。

「…戻れるわけないよ…、っ…おまえ、…っほんと、鈍いんだから…っ!!」
「…っ…ん、んう…っ!?」

キスをされたのではないだろうか。
ど…どうしたらいいのだろうか。

これでは、本当に、私とキミは、親友に戻れなくなってしまう。

「…ちゅ、…っんん、……、は、ぁ…みつるぎ、…」
「…、な、…待、…ん、…っ…」

ソファーに、押し倒された。両腕を、片手で押さえられる。…相変わらずの、馬鹿力だ。

「御剣、………、言っただろ、好きな人目の前にして、そんなこと言われたらさ、…したくなるよ」

ぐい、と成歩堂は、自分のネクタイをゆるめた。
ぞくり、と背筋に何かが走るような、痺れていくような感覚におそわれた。
そうして、両足の間に彼の足が当たる。
やめていただきたい。
いや…少々、待っていただきたい。
私は、先ほどキミへの気持ちに気づいたばかりで。
それを忘れようとしたのだ。
それなのに、この急展開に、ついていけるはずがないだろう。

「…あ…」

上半身に、魅せられた。…これはもう、…彼への欲情、だ。
顔が熱くなる。

「御剣…、少しだけ、…いい?」

首に、ちくりと痛みを感じる。
「…、っ…」
「……感じて…、少しだけでいいから」

そろりと、下半身をなでられた。

「…な、る…っ…、待て、と…っ…あぁ、…」
「……っ……、御剣…、好きだよ…御剣…」
「…だめ、だ…っ…」
「よかった…、…反応、してる…」

ぴたり、と彼の手の動きが止まる。
なんだ、何が、なんだか、わからない。
勝手に言い逃げするかと思えば、このような強行手段か。

「キミは、いつも強引すぎるのだよ…」
「ごめん…、…本当に、…ぼくで、嫌悪しないでくれるんだな」
「するはずがないだろう。…それで、だな、成歩堂…、私はこのまま、放置、されるのだろうか」

「え」

まったく苦笑を隠せない。
しかし、くすぐったいような気持ちがこみ上げてくるのだから、どうにかなってしまった、と言うことにしておこう。

「ならば、どきたまえ。私はシャワーを浴びにいく。 キミは、帰るなり居るなり、勝手にしろ、バカモノ」
「え、だって…し、…してもいいの?」

「っ…そうは、言って…ない」

言っているのだ。

「…調子にのっていい?」

キミが乗らなかった経験は皆無だ。

「普段からそうだろう、……ぁ…、はなし、たまえ…」

「……どうしよう…」
「なにがだ」

「うれしい。 ぼくも、…したくなっちゃった」

子供のように笑いながら、しかし、成歩堂は反応した雄を私に触れさせた。

「…っ…どけ! …っ性急すぎるのだ貴様はっ!!」
「御剣は、ぼくと触れ合うのは、やっぱりイヤ?」

「そうは言ってないだろう! しかし、それとこれとは話が別なのだ、…から…」
「どこが別なの、そのままじゃないか」

「いや、しかし…撫でるな…、…って、しまう…」

「教えて御剣。 ぼくに抱かれることが、できる?」
「できん!! できるかそんな事が!! そんな、…」

そんな目で見るな。
…くそ、…わかってる、こんな言い方をしているが、しているが。

「御剣…」
「……っう、嘘だ…、…………、まだ、わからない」

言葉を濁すことしか、できない。
そこまで考えたことがなかったのだ。

「ちょっとでも可能性ある?」
「………知るか…、…っ…私は、男だぞ…、答えたくない…」

「じゃあ、待っててもいい?」
「…………、勝手に、しろ」
「うん、勝手にするね」

ちゅ、と頬にキスをされた。
髪をなでられ、頬ずりをされる。小さな声で、御剣、…と何度も呼ぶのがわかった。…困った。泣きそうになる。

そんな声を、出さないでくれ。

―― キミは、どれだけ、私を好いてくれていたのだろう。
―― キミは、どれだけ、私の為に生きてくれたのだろう。


私は何も返せていない。キミが困った時に、ジェット機をチャーターして、駆けてきても。
結局は、少しばかりの手伝いしかできなかった。
挙句、地震すら、克服できていない。もう、すべては終わったというのに。
彼が、終わらせてくれた、15年間の悪夢。

「…なる、ほどう…、…好きだと、言っているのだから…察しろ」

腰を、少しだけ彼に寄せた。
成歩堂は、完全に雄の顔をしている。
喰われそう、だな…、そんな風に思う。 そろり、と、また、私の熱に、彼が触れる。
だがすぐにそれは、離れた。

「いいの? 待てる、のに」
「…待てないから、告白したのでは、ないのか?」

「そ、それは気持ちの方で…今は、おまえがぼくを、って、わかってるから、さ」
「では、言い方を変えよう。 私が待てないのだよ」

「ちょ、…おまえって結構、そーゆーとこ、あるよな」
「…軽蔑するか?」

「するワケないだろ。むしろ大歓迎だよ。 でもさ、おまえ強がってるだろ。眉間にシワ、すごいぞ」
「…むう…。まったく、キミには、上手く嘘がつけないな。 いっそのこと、…最初から、その、サイコロ錠を使えば、よかったのではないか?」
「だめだよ、おまえの気持ちは、おまえの声で、聞きたいから」
「成歩堂、…キミは、私を翻弄するのが、うまいな」
「おまえほどじゃないけどね」


成歩堂。キミの笑顔は、私の心を暖める効果があるようだ。

気がつけば、互いにもう、生まれたままの、姿だった。
しかし動く気配もなく。ただ、見つめ合う時間が続く。
窓の外にしんしんと積もる雪が、視界に入った。

「御剣…」
頬に、触れられる。
困ったな。このような時にどのような反応を返すのが、正しいのだろうか。
今まで、私はどうしていただろう、と考えた時、そのような過去が自分にないことに気づいた。
ああ。
本当に私は、ただ、悪夢とともに、歩んできただけの、つまらない人間だったのだな。
人に触れるのが、恐ろしかった。
人の内面を見ることも、その逆も。
そうして線引きを繰り返しているうちに、それはいつのまにか己を包む檻となり、最後には、籠になってしまった。
鍵すらついていない。だが、そこから出ることも、しようとも想わなかった。

私は、己が籠の鳥であることに、気づいていなかったのだ。

キミが、そこに通りがかるまでは。
手を伸ばそうとして、覆われたそれに、気づいてしまったのだ。


「好きだよ」
「…うム」

「きっとおまえは、おまえにとってはさ、人生においての一瞬かもしれないけど。 ぼくをそこに残してよ。 たまに思い出してくれるだけでいいんだ。」
「随分と刹那な言い方をするのだな。 先ほど気持ちを確かめ合ったばかりだ」
「うん、最初だからさ。 言っておこうと思って。 ぼく、御剣の負担にはなりたくないんだ」
「…キミの存在を重荷に感じたことはないぞ」
「うそつけ。 ぼくにだけは、弁護の依頼したくないって言ってたやつが」
「それは、キミが、特別だったからなのだよ」
「…特別?」
「失いたくないのだ。 私が生きてきて、一番に得た、価値ある存在。 それが、―― 成歩堂龍一、キミなのだよ」
「…っ…、…、ずるいなあ、おまえ。そんなこと言われたら、ずっと、離せないだろ?」

少々強めの抱擁を受け入れながら、その背中に、手をまわす。


私はどうしようもなく、救われてしまったのだ。

「――…どうやら、消せそうにもない」



成歩堂。
成歩堂龍一。


もしも、私が籠の鳥ならば。

キミと名の付く、空を仰ぎ、翼を広げるだろう。